第18番 聖護院 門跡
ご朱印
ありがたや 聖の森に ひびく法螺 智慧のほのおに 心あらわる
家田荘子コラム 十八番 聖護院門跡
八ッ橋の「聖護院」を右にすぎてすぐ、左側に垣根が見えて来ます。大きな石柱に「聖護院門跡」とあり、思わず姿勢を正します。修験道の本山派の総本山だからでしょうか? 悪い輩は、はじき飛ばされてしまいそうなピリリ感があります。 大きな厚い木の扉付き山門をくぐります。延宝3年(1675)大火で聖護院は3度目の全焼をしました。この時旧地に伽藍を再建し建築された山門ですが、平成13年に修理をしました。旧山門は自然木に欅の板を貼って、大きな材木に見せていたそうですが、今は立派な材木、堂々たる山門です。 山門をくぐると、左からしだれ桜、右から松が迎えてくれます。まるで絵ハガキになるようなきれいなシーンです。 院内に入るとまず「大峰 の山伏」を紹介する人形に出逢い、ドキッとします。 大玄関の襖絵は、狩野(かのう)永(えい)納(のう)、益信作の「松の間」です。桃山障壁画の遺風を残す老松と鶴。続く「孔雀の間」では、狩野永納作の親子孔雀が描かれています。そして「太公望(たいこうぼう)の間」。やはり狩野永納作で、西北東の三面に別のストーリーが描かれているのです。 宸殿は、法親王が居住する門跡寺院の正殿です。聖護院の宸殿は、波之間、須弥壇、内陣、外陣、そして上段之間、二之間、三之間と部屋が分かれています。「すべての部屋は」、宮様が座られる上段之間に続きます。 天明8年(1788)「天明大火」という大火災が起こり、光格天皇御所が延焼の被害を受けました。市内の七割も焼けてしまい、御所再建までの3年間、聖護院を仮御所としたのです。上段之間で昼御座(公務)にあたられたそうです。 上段之間の上、欄間中央には「研(けん)覃(たん)」と書かれた額がかかげております。 後水尾天皇の宸筆です。研覃とは、農耕機具のことをいいます。よく研いた鋤や鍬でしっかり耕すと、田畑は豊かな大地となります。人に於いては、覃とは自分自身です。自分を磨くことの大切さを表わしています。 研覃の額装は、角が丸くなっています。「角を立てない」という後水尾天皇のお心の現われです。すごい気配りで、後水尾天皇のステキさがうかがえます。相当、女性におもてになったようです。 よく見ると、上段之間の手前、「二之間」の欄間の左右の隅に穴が開いています。これは「ネズミ通し」の穴だそうです。 上段之間から二之間は、江戸城の障壁画を描いた狩野益信の四季花鳥図で、正面の床に瀧と松。廻りは鳥や花が描かれています。三之間は九老之間とも呼ばれ、九人の仙人が描かれています。 書院にも、後水尾天皇の心配りや愛情が感じられます。書院は、延宝4年(1676)、御所を移築したものです。数寄屋風の屋根で、戸の桟を縦にしていることや、その造りから脆弱なイメージに見えます。それは「支えてあげたい」という男性としての希望が込められているそうです。 この書院は、愛する櫛笥隆子に後水尾天皇がプレゼントした建物です。 でも、ただプレゼントしたのでなく、この書院の中が、後水尾天皇の愛情で満たされていて、それはそれはすごいのです。 まずは入ってすぐ右の普通の部屋ですが、第二室に入ると、釘隠しが、恋文を表わす折文の形をしているのです。あちこちに恋文の釘隠しをちりばめています。入口は、わざと普通の釘隠しにして、奥はラブレターだらけの釘隠し。なんて粋でステキな計(はか)らい……大感激されたことでしょう。 奥の部屋に入りますと、こちらが後水尾天皇がプライベートで過ごすお部屋です。プライベートなので、櫛笥隆子との上下関係をなくすため、あえて床の間を二つ作られました。こんなに昔の時代から女性を尊重して下さっていたとは……驚きです。 窓ガラスは、なんと350年以上前のもので、「ギヤマン硝子」です。ちょっと歪(いびつ)になっていますが、一寸で一両と言われるくらい高価なガラスです。鉛の含有量の多いクリスタルガラスだそうで輸入ものです。ただ、2枚のうち左のガラスは、割れたため、明治以降入れ替えられたものです。 書院全体が女院御殿です。奥の床の間には、前述のガラスを華頭窓に使用し、「笹竜胆」の泥七宝釘隠しが使われています。障壁画は狩野派の山水桜閣図で、「多聞室」と後水尾天皇直筆の額が掲げられています。「多くを聞く部屋」。やっぱり上下関係のない部屋であることを強調されています。 欄間は、350年以上も前なのに幾何学模様を大胆に使っています。 実は、後水尾天皇には、2桁の側室がいて、子供は30人以上、相当おもてになられたようですが、お一人お一人に、こうした深い愛情表現をされたのでしょうか? 宸殿・書院は特別拝観の時には見ることができます。 後水尾天皇が、あまりに色男なので、つい長くなってしまいました。 さあ、一番奥にある本堂、不動堂へまいりましょう。 ご本尊は、重文の大聖不動明王様。930年前の平安時代、智証大師円珍御作と伝わる檜の寄木造り立像で、右手に智剣、左手に羂索を持っていらっしゃいます。 弁髪を左の肩に垂れ、天地眼を示されています。左足を前に出され、生々しいほど逞しい腕をされているのが特徴です。実は4度の火災を逃れていらっしゃる強運の不動明王様です。 迦楼(かる)羅(ら)を3体含む炎と二童子は、後補で、不動明王様と600年くらいの差があります。 左の制?迦童子ですが、「ふん!」とでも言っているような「おじさん顔」(失礼)をしていて、少々変わっています。 本堂には、役行者様と、智証大師円珍様(重文)もいらっしゃいます。 鷲の窟で修行中の役行者様は、前鬼後鬼だけでなく、左右に8童子を従えており、大変珍しいお姿です。また重要文化財で良成仏師作の智証大師円珍座像は、榧(かや)の木を使った一木造りで大変貴重です。 宸殿にも、向かって右から3尊の不動明王様がいらっしゃいます。一番右が室町時代の不動明王様、中が鎌倉時代、左が江戸時代の不動明王様で座像です。こちらの不動3尊は、明治の修験道廃止令で廃寺となった寺のご本尊で、右の不動明王様は、一時雨ざらしだったそうです。明治の法難の時代は修験の寺へお嫁に行くと、村八分にされたくらい修験は、差別をされていたそうです。いずれの不動明王様も、明治までは末寺のご本尊様だったのです。 「コラッ!」と怒っていらっしゃるような座像の不動明王様は、歯に水晶が入れられています。中央左は孔雀明王様で、神戸の震災で行き場の無くなった仏様として来られました。 中央は、銅作り半跏座の役行者様です。前鬼と後鬼が、真横を向き見つめ合っている姿は珍しいと思います。他に蔵王権現様や、三宝荒神様もいらっしゃいます。 狩野益信の群(ぐん)鶴図(かくず)が道場を囲む形で描かれています。全面、金箔地で、幼鳥や成鳥が老松で遊ぶ姿が描かれています。道場は法要を行なう時に使われます。 本堂が小さいことから、当時の修験の生活ぶりがうかがえます。聖護院は、あくまでも皇室の生活に重きをおいています。 寛治4年(1090年)の創建以来、4回火災に見舞われ、そのうち3回は全焼だったため、次第に伽藍が小さくなってしまったそうです。 さて、もう一室、不動明王様がいらっしゃる所があります。二階の仏間です。仏間は、小玄関の奥にある階段を上がった所にある部屋です。本堂か、二階の仏間か、どちらかをいつも参拝できるようになっています。私の場合、15年も前から近畿36不動尊巡りを何巡もしていますが、本堂で拝めたのは2017年の夏が初めてで、ずっと本堂の不動明王様とご縁がありませんでした。 仏間の中央は、江戸時代初期の逆手の立像阿弥陀如来様です。阿弥陀如来様の「上品上生」の印は、右手が上で左手を下に向けます。ところが、こちらの阿弥陀様は逆なのです。左手が上で右手を下にされているのです。全国に逆手阿弥陀如来様は5%くらいいらっしゃるそうですが、きっと、あの手この手で、この世を救って下さっているのでしょう。鎌倉時代から室町時代にかけて、逆手が流行したそうです。また、阿弥陀如来様の左右の足が一輪ずつの蓮台に乗っているのも、とても珍しい形です。 左側には、役行者様。御開山の増誉大僧正右には、聖護院で一番古い重文の立像不動明王様がいらっしゃいます。千年以上前の不動明王様です。度重なる火災で、こちらの不動明王様は、聖護院とご一緒に避難して来られたそうです。衣には当時の切金が残っている等、貴重な不動明王様です。 そして、左端に客仏の毘沙門天様がいらっしゃいます。体のくねり方は平安時代の表現ですが、お顔は鎌倉から室町時代の表現だそうです。脇仏として、妻の吉祥天様、そして子供の善爾師童子もご一緒です。 納経所は、宸殿から本堂へ行く途中にあります。お坊さんがご朱印をして下さいます。本堂へは、中庭からも行くことができます。山門から入り、右にある塀重門をくぐれば正面に護摩堂(本堂)があります。 庭に入ってすぐ右に日吉桜、目の前には砂と松の芸術庭が広がります。日吉大社様より固有種・日吉桜を平成28年2月にいただいたそうです。 庭の中央では、採燈大護摩が厳修されます。その際、門主が座られる石や、笈(おい)掛(かけ)石が、もちの木の下にあります。サクサクと白砂の上を音をさせて本堂へ向かいます。 2月3日と、役行者が昇天された6月7日に、こちらで採燈大護摩が行われます。聖護院内には、宿と食事の御殿荘もあります。
近畿三十六不動尊霊場会先達・作家家田荘子寺院紹介
- 名称
- 総本山 聖護院門跡(しょうごいんもんぜき)公式サイト
- 通称
- 森御殿(もりごてん)
- 不動尊について
- 公開、木造立像(平安時代・智証大師作)、重要文化財指定。
- 縁起
- 聖護院は、役行者(634~701)を開祖とする修験道の総本山。 平安後期、円珍が、32歳で大峯に入り、熊野本宮で法華経を講じた。智証大師を本山派修験の初祖とし、寛治4年(1090)園城寺(三井(みい)寺)の増誉大僧正が、上皇を先達して熊野本宮参りをした。その功労により都に聖護院が創建され、増誉大僧正が、熊野三山検校職に就き、聖護院が、日本最初の修験の本山になる。聖護院という名は「聖体護持」から2文字を取って賜ったという。
- 所在地
- 京都市左京区聖護院中町15
- 郵便番号
- 606
- 電話番号
-
- 075-771-1880
- 075-751-0752
- 宗派
- 本山修験宗
- 開山
- 増誉大僧正
- 創建
- 寛治4年(1090)
- 詠歌
- ありがたや 聖(ひじり)の森に ひびく法螺(ほら) 智彗のほのおに 心あらわる
- 行事
-
- 1月1日~3日
- 修正会
- 1月中旬
- 寒行
- 1月25日
- 宗祖諡号記念法要、年賀式
- 2月節分
- 採灯大護摩
- 2月19日
- 初祖増誉大僧正忌
- 4月下旬
- 葛城修行
- 6月7日
- 高祖大士報恩会、採灯大護摩
- 8月1日
- 大峰奥駈修行
- 10月15日
- 修験先徳追崇法要
- 11月29日
- 大師講(智証大師)
- 毎年1回
- 国峰修行
- 特色
- 障壁画と宸殿、書院。
- 交通(地図はこちらをクリック)
-
- 徒歩
-
- 京都駅からD―2、206号「北大路バスターミナル」行きの市バスに乗り、「熊野神社前」で下りる。東山丸太町のひとつ北(前方)の通りを右へ。 (このバスは、清水寺や三十三間堂へ行くバスなので、とても混みます) 「聖護院八ッ橋」をすぎたら左側に聖護院の入口が見えてくる。徒歩3~4分。
- 京阪神宮丸太町駅からは、丸太町通りを通って東へ。熊野神社のある東大路通りに着いたら北へ行く。 聖護院の近くには、京大医学部付属病院があるので、迷ったら、上方を向いて病院を探すといい。
- 車
- 熊野神社(東大路、丸太町)北、最初の辻を東100m、山内駐車可。
- 団体バス
- 丸太町通り熊野神社より東へ100mに停車、北へ徒歩4分。又は、東大路通り熊野神社北へ100mに停車、東へ徒歩3分。バスは平安神宮バスプールへ。
- 休憩宿泊等
- なし。
- 拝観
- 予約制であり、一般の拝観はしていない。1人300円
- 附近の名所旧跡
- 青蓮院、平安神宮、銀閣寺等。
- 山主
- 管長(かんちょう)または門主(もんしゅ)「宮城(みやぎ)泰年(たいねん)」
- 特産
- 八ッ橋。